興福寺三重塔(国宝)

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興福寺三重塔(国宝)

創建年

1143年(康治2年)12月→1180年(治承4年)平重衡による戦火のため焼失

再建年

  • 1180年の被災後間もなく、鎌倉前期には再建されたと伝えられていますが、正確な年はわかっていません。
修理年

  • 1550年(天文19年)
  • 1721年(享保6年)
  • 1723年(享保8年)
  • 1859年(安政6年)
  • 1908年(明治41年)10月~1910年(明治43年)3月=解体修理
  • 1979年(昭和54年)屋根葺き替え部分の修理
建築様式(造り)

三間三重塔婆

高さ

19m

大きさ(面積)など

  • 初層は方三間(4.8m四方)総間15尺9寸8分(中央間5尺6寸、両脇間5尺1寸9分)
  • 二重10尺8寸5分(中央間3尺8寸8分、両脇間3尺4寸8分)
  • 三重9尺2寸6分(中央間3尺3寸5分、両脇間2尺9寸5分)
  • 相輪長19尺2寸4分、全高62尺9寸6分
屋根の造り

本瓦葺

発願者(建てた人)

皇嘉門院(こうかもんいん)聖子=藤原 聖子(ふじわらのきよこ)

重要文化財指定年月日

1897年(明治30年)12月28日

国宝指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

堂内の仏像

  • 弁財天像
  • 十五童子像

興福寺三重塔の高さはいくら?

興福寺三重塔の高さは19mと日本国内の三重塔の中では5番目に高い三重塔です。

清水寺以外の寺院の三重塔との高さの比較

薬師寺東塔(奈良): 高さ約34m(奈良時代)※日本でもっとも高い三重塔!
清水寺三重塔(京都):高さ約31m(平安時代)
法起寺三重塔(奈良):高さ約24m(飛鳥時代)
安楽寺八角三重塔(長野):高さ:18.75m(鎌倉時代)
興福寺三重塔(奈良): 高さ18.4m(鎌倉時代)


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興福寺三重塔が特別開扉されるのはいつ?特別公開の日程

興福寺三重塔は、通常は内部非公開の建物です。後述しますが興福寺三重塔は興福寺境内の中でも現存する最も古い建物であり、内部の美しさはぜひ垣間見たいものです。

そんな三重塔は年に1度だけ特別開扉があります。日程と時間は以下のとおりです。

  • 日程:毎年7月7日(年1度)
  • 時間・9:00~16:00
  • 開扉法要・10:00~

興福寺三重塔とは?歴史と由来

それでは、興福寺三重塔が建設されるに至った経緯や歴史について確認してみましょう。

崇徳天皇の中宮・皇嘉門院聖子が建立

興福寺に三重塔を建立したのは、崇徳天皇の中宮(=皇妃)であった「皇嘉門院聖子」(生1122年ー没1182年)という女性です。皇嘉門院は関白藤原忠通の長女であったため、彼女自身とその後ろ盾には大きな権力がついていました。

「なぜ」皇嘉門院聖子が三重塔を建立したのかという経緯は、残念ながら伝えられていませんが、崇徳天皇と聖子との間には子どもができておらず、三重塔建立以前の1140年には、側室である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)が第一子となる重仁親王を出産したため、崇徳天皇と聖子・関白忠通親娘との間に感情的な確執が生じたということが伝えられています。

塔とは卒塔婆と同じもの、つまり仏の墓標にあたるものですので、仏教信仰上、仏に対する最大級の敬意を表すものであり、かつ権力を誇示するものでもあります。

こうした跡継ぎ問題の背景などもあり、皇嘉門院聖子が仏の加護を祈りつつ、関白家の権力誇示をかねて三重塔の建設を命じたのであろうことが推測できます。

興福寺三重塔は北円堂に並ぶ興福寺最古の建物

興福寺の建物は、多くが奈良時代に建てられました。平安時代の初頭813年に南円堂が建設され、その後1143年に建てられたのが三重塔です。ところが、これらの全てが戦火などの被災によって幾度かの焼失の歴史を経ています。

興福寺三重塔が初めて建設されたのは1143年ですから、興福寺の建物全体の中で見れば新しいと言っても良いのかもしれません。しかし戦火や火災によって焼失、再建を経るうち、今となっては、興福寺境内で最も古い建物の時代は鎌倉時代となってしまいました。

1210年(承元4年)に再建された北円堂の建物と、再建年代はわかっていないものの1180年(治承4年)に被災した後すぐに再建されたと伝えられる三重塔の2つだけが、興福寺境内の中で最も古く、今も残る「鎌倉時代の建物」です。

興福寺 三重塔 建築様式(構造)

ここで、興福寺三重塔の構造について見てみましょう。

興福寺には五重塔と三重塔という2つの塔があり、どちらかというと規模の大きな五重塔のほうが注目度も圧倒的に高いと言えます。しかし勇壮な室町建築である五重塔とは違って、繊細な印象を与える三重塔を美しいとする人もまた、たくさんいます。

逓減率が高く安定感のある外観

興福寺三重塔の逓減率は0.851です。

五重塔の逓減率は0.69ですので、これに比較すると、ほっそりとそびえるイメージの五重塔に対して、外観の特徴としてはどっしりとして、「安定感がある」印象を受けるでしょう。

初重は出組のみ、二重と三重の組物は三手先

 下は初重、上は二重の組物

興福寺三重塔の特徴の1つに、「初重」と「二重&三重」といった2分割の構造が挙げられます。

初重は4.8m四方の建物ですが、屋根を支える斗栱(ときょう)は出組(でぐみ)のみのシンプルなものとなっています。

一方、二重と三重部分の斗栱は、斗(ます)組み三段の「三手先(みてさき)」と言われる形式です。

通常、塔に使われる斗栱は三手先であることが多く、そういった観点で言えば初重の出組のみの屋根構造は、塔ではなく仏堂に近いものであると言えます。

初重を貫かない心柱

心柱は、塔構造の芯とも言える大切な部分で、興福寺五重塔など多くの塔では、法輪から地面に至るまでを1本の長い柱(心柱)が貫いて塔構造を支えています。

しかし、興福寺三重塔の場合、心柱が存在するのは二層と三層のみで、心柱が初層には届いていません。

この構造は、平安期に多く建設された塔よりも、鎌倉期に盛んに建立された多宝塔の構造に近く、鎌倉建築である興福寺三重塔の特徴の1つと言うことができます。

心柱が届いていないため、初層の空間は広く、次にご紹介するような仏像や絵画が広々と収められています。


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興福寺三重塔の見どころ!内部の仏像と絵画

興福寺三重塔の内部には、以下の仏像が納められています。

  • 弁財天像
  • 十五童子像

また、興福寺三重塔の見どころの1つに、合計4,000体と言われる仏絵があります。

四天柱をつなぐ板に4仏×1,000体の絵画

 左:現状の四天柱の板/中央・右:2016年に凸版印刷によって再現された彩色

興福寺三重塔の初層内部について、堂周囲を固める4本の柱を「四天柱(してんばしら)」と呼びますが、この四天柱をつなぐX状の板には見事な絵画が描かれています。それぞれ千体ずつの仏様ですが、方角によって仏様が異なります。

  • 東:薬師如来
  • 南:釈迦如来
  • 西:阿弥陀如来
  • 北:弥勒如来

それぞれ4方向を守護すると伝えられる如来が描かれる他、四天柱、長押(なげし)、柱、扉や壁といった部分にも、余すところなく浄土の様子が描かれているさまは圧巻です。

弁財天像は法要「弁財天供」で内部一般公開される!

  • 日程:7月7日 法要……10:00~11:00頃
  • 特別開扉……9:00~16:00
  • 自由参拝、無料

興福寺三重塔は、年に1度、法要の「弁財天供」が行われるにあたり特別開扉が行われ、一般公開されます。

これに伴い、空海が勧請したと言われる弁財天像と十五童子像のお姿を拝むことも可能です。

弁財天供では僧侶により、般若心経、唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)といった経典が唱えられて供養が行われます。

弁財天の特徴は頭上の鳥居

興福寺三重塔の弁財天像は、初層内陣に座していますが、その頭上には鳥居があり、ぱっと目を引くでしょう。

興福寺南円堂を建立する時、空海が奈良吉野の天川村というところに滞在し、修行を行いました。この折に空海が、天川村に宇賀弁才天がいらっしゃることを感得し、興福寺へ勧請したと言われるのが、三重塔弁財天像の由来です。

三重塔の弁財天は、興福寺敷地内の窪地に三重塔が建設されていることから、「窪弁才天」とも呼ばれます。

興福寺三重塔の場所(地図)・お問い合わせ先

興福寺三重塔は、南円堂のさらに南側に位置しています。南円堂の裏手にあたり、少し目立たない場所ですがぜひ足を伸ばしてみましょう。

  • 住所:奈良県奈良市登大路町48
  • TEL:0742-22-7755(事務所)

 

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